「努力すれば誰でもできる」って、ホンマか?弱者代表の俺が語る『その言葉の落とし穴』
2026.8.8

「努力すれば誰でもできる」
この言葉、よう聞くやん?
自己啓発本とか、成功者のインタビューとか、SNSのキラキラ投稿とか。
俺、あの言葉聞くたびに、正直モヤモヤするねん。
なんでかって?
俺みたいな弱者には、あれが毒やったから。
「お前が努力してないだけやろ」って言われてる気がして、余計に動けなくなるんや。
今日は、弱者代表の俺が、この「努力すれば誰でもできる」って言葉の『落とし穴』について、本音で語っていくで。
「誰でもできる」って言うけど、ホンマにそうか?
俺がこの言葉を嫌いな一番の理由。
それは、**「誰でも」って言うけど、スタートラインが違いすぎるやろ!**ってことやねん。
例えば、生まれつき運動神経抜群で、親も協力的な環境で育ったやつと、俺みたいに運動嫌いで、家でゲームばっかりしてたやつが、同じように「努力すればプロになれる」って言われても、納得できへんやん?
もちろん、努力は大事や。それは間違いない。
でも、「努力できる」ってこと自体が、ある種の才能やったり、恵まれた環境やったり、運やったりするねん。
俺も昔は、ドーパミンの奴隷やった。ゲーム、ポルノ、Twitter、ショート動画。
朝から晩までスマホ握りしめて、脳みそが常に快感で麻痺してる状態やった。
頭では「このままじゃアカン」ってわかってるねん。筋トレせなあかん、勉強せなあかん、散歩せなあかんって。
でも、体が動かんのよ。ベッドから起き上がるのも億劫で、スマホを触る指だけは異常に軽かった。
そんな時に「努力すれば誰でもできる!」って言われても、どう思う?
「俺は努力すらできひん、ダメな人間なんや」って、自分を責めるだけやった。
「努力」の前に、まず「ドーパミンの支配から抜け出す」って、とんでもないハードルがあるねん。
このハードルを無視して「誰でもできる」って言われると、できない自分を責めるだけで、結局何も変わらへんかった。
俺が「努力」って言葉に苦しめられた過去
俺も昔は、自分を追い詰めるのが得意やった。
「なんで俺はこんなにダメなんや」「もっと努力せなあかんのに、なんでできひんのや」
そうやって自分を責めて、さらに自己肯定感が下がって、動けなくなる悪循環やった。
特に、SNSでキラキラした「努力の成果」を見るたびに、胸が締め付けられたねん。
「あいつらはあんなに頑張ってるのに、俺は…」
そうやって、自分と他人を比較して、勝手に落ち込んでた。
でもな、ある時気づいたんや。
俺らが本当に必要なのは、「誰でもできる」っていう無責任な言葉じゃなくて、「俺でもできた」っていう小さな成功体験なんや、って。
メンズコーチジョージの動画を見て、ドーパミンデトックスを始めた時もそうやった。
いきなり「毎日筋トレして、毎日瞑想して、毎日日記書け!」って言われてたら、絶対続かへんかったと思う。
でも、ジョージは「まずはスマホを置く時間を10分作ってみよう」とか、「散歩から始めてみよう」とか、ほんまに小さな一歩を教えてくれたんや。
その「小さな一歩」が、俺にとっての「努力」やった。
「誰でもできる」じゃなくて、「俺でもできた」を積み重ねようや
だから、もし今、「努力できない自分」を責めてる仲間がおったら、安心してほしい。
俺もそうやった。今もたまに負ける。
でも、それでええねん。
「誰でもできる」なんて言葉、気にせんでええ。
俺らは俺らのペースで、昨日よりちょっとだけマシな今日を作っていこうや。
まずは、ドーパミンの支配から抜け出すこと。
- スマホを置く時間を10分作る。
- ショート動画を1本だけ我慢してみる。
- ポルノを見る回数を少し減らしてみる。
次に、小さな「できた」を積み重ねること。
- 1日6000歩、散歩してみる。
- 瞑想を3分だけでもやってみる。
- 日記に今日の出来事を一行だけでも書いてみる。
これらが、俺らにとっての「努力」やねん。
「昨日の自分より、今日の俺はちょっとだけマシ」
そう思えることが、何よりの自己肯定感に繋がるし、次の行動へのエネルギーになる。
俺は、これからも「弱者代表」として、みんなと一緒に、一歩ずつ進んでいきたい。
「努力すれば誰でもできる」なんて、無責任な言葉に惑わされずに、俺らは俺らのやり方で、自分の人生を取り戻そうや。
一緒に、ドーパミンの支配から抜け出して、自分の人生を好きになれる自分を目指そうや!